ギガス写本(悪魔の聖書)とは|失われた12枚の謎

スウェーデン王立図書館に保管される巨大写本「ギガス写本」。一晩で悪魔と契約して書かれたという伝説、失われた12枚の羊皮紙、災いを呼ぶ本という都市伝説まで、史実と怪談が交錯する“悪魔の聖書”の全体像を整理する。

1. 「悪魔の聖書」と呼ばれる巨大な本

スウェーデン・ストックホルムの王立図書館。
厳重なガラスケースの中に、一冊だけ異様な存在感を放つ本が置かれている。

縦およそ92cm、横50cm、厚さ22cm。
重さは約75kg——中世最大級の写本。

ラテン語で「巨大な本」を意味する Codex Gigas(ギガス写本)。
別名は「悪魔の聖書(Devil’s Bible)」。

聖書写本でありながら、
・悪魔の巨大な一枚絵
・呪文や悪魔祓いの文書
・中世の医学書や年代記
まで詰め込まれた、“世界の知識を一冊に集約したような本”だといわれている。

そして何より、この本をめぐっては、

「一晩で書き上げられた」
「破壊しようとすると必ず災いが起きる」

といった、数々の怪談・都市伝説がつきまとっている。

2. ボヘミアの小さな修道院で生まれた「巨書」

ギガス写本が作られたのは、13世紀前半。
現在のチェコにあたる、ボヘミア地方のポドラジツェのベネディクト会修道院だと考えられている。

この修道院は、後にフス戦争の混乱の中で破壊されてしまい、いまは跡地に記念碑が残るのみだという。

写本の後半には、ボヘミアの年代記『Chronica Boemorum』が収録されており、
そこに記された年号は1222年で終わっている。
このことから、「1200年代前半にここで制作された」と推定されている。

やがてこの巨大な本は、修道院の財政難からセドレツのシトー会修道院へ質入れされ、
その後、ブジェヴノフ修道院、ブロウモフ修道院の蔵書を転々とし、
最終的に16世紀末、神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の宮廷図書館に迎えられた。

三十年戦争末期の1648年、
プラハを占領したスウェーデン軍が戦利品としてこの写本を持ち去り、
以後ずっと、ストックホルムの王立図書館に収蔵されている。

3. 一晩で書かれた? 悪魔との契約伝説

この本を一躍有名にしたのが、「一晩で書き上げられた」という中世からの伝説だ。

伝承の典型的な筋書きはこうだ。

ベネディクト会のある修道士が、重大な戒律違反を犯し、
「壁に生き埋め」の刑を宣告された。

命乞いをした修道士は、
「一晩で、修道院の名誉を永遠に高める書物を完成させる」と誓い、
処刑の猶予を勝ち取る。

しかし夜も更けるころ、
自力では到底終えられないことを悟った彼は、
神ではなく悪魔に祈りを捧げる。
「魂と引き換えに、この本を完成させてほしい」と。

取引は成立し、
悪魔は一夜にして写本を完成させた。
修道士は、その証として、
本の中に悪魔の巨大な肖像画を描き加えた——。

この物語は、すでに中世の段階で“伝説”として記録されている。

もちろん、現代の研究では、
・筆跡の分析から「一人の書き手」である可能性が高い
・しかし必要な作業量から、完成まで20〜30年はかかったと試算されている。

それでも、

「一人の修道士が数十年かけて、
聖書から呪文、医学、年代記まで、世界の知を一冊に写した」

という事実自体が、
別の意味で“人間離れした執念の産物”として、伝説を支えている。

4. 動物何百頭分? 本の「物理的な異常さ」

ギガス写本の異様さは、内容だけではない。
物理的なサイズも中世の書物としては桁違いだ。

縦:約92cm

横:約50cm

厚さ:約22cm

重さ:約74.8kg

310葉(=620ページ)

羊皮紙は、ロバ160頭分とする伝承が有名で、実際には子牛皮の可能性もあるが、いずれにせよ“動物が数十〜百頭単位で必要だった”規模であることは確かだとされる。

表紙は分厚い木板を革で覆い、金属の金具とコーナーで補強されている。
ページには、赤・青・黄・緑・金のインクで、
大きな装飾頭文字や図像が描き込まれている。

ページをめくる映像を見ると、
「机に置いて読む」というより、
数人がかりで台座ごとゆっくり傾けるような扱い方をしている。

「一人の修道士が、これを一晩で」
——という伝説が、いかに非現実的なものであるかは、
実物のサイズを見れば一目瞭然だ。

5. 聖書と呪文と百科事典が、なぜか一冊に

ギガス写本の内容は、さらに奇妙だ。

おおざっぱに分けると、次のような構成になっている。

ラテン語聖書(ウルガタ訳)

旧約・新約の大部分

使徒行伝・黙示録は古ラテン語系テキスト

中世百科事典『エティモロギアエ』(セビリアのイシドール)

ユダヤ史家ヨセフスの『ユダヤ古代誌』『ユダヤ戦記』

ボヘミア史『Chronica Boemorum』

医学書(コンスタンティヌス・アフリカヌスなど)

暦のページ(聖人暦/祝祭日)

悪魔祓い・呪文・魔術的な文書

ヘブライ語・ギリシア語・スラブ系文字などのアルファベット集

つまりこの本は、
「聖書」「歴史」「医学」「魔術」「暦」「言語学」が一冊に詰め込まれた、
**中世版の“世界のすべてが載った本”**のような構成になっている。

中でも、
・悪霊を追い払うための儀式文
・病に効くとされた呪文や処方
などが、聖書と同じページを共有している点が、
後世の人々の想像力を大きく刺激した。

「神の言葉」と「悪魔を扱う術」が、同じ本の中に並んでいる——

このアンバランスさが、「悪魔の聖書」という呼び名を定着させる一因にもなった。

6. 悪魔の肖像と、向かい合う天国の都

ギガス写本の中で最も有名なページが、
悪魔の全身像が1ページを埋め尽くす挿絵だ。

・角を持つ頭
・濃い緑色の顔と、兜のように密集した巻き毛
・4本の指に尖った爪
・二股に分かれたように見える、赤く長い舌

中世ヨーロッパの悪魔像の典型を踏まえつつも、
どこか“戯画的”で、一度見たら忘れられないデザインになっている。

そしてこの悪魔のページの向かい側には、
「天のエルサレム(Heavenly Jerusalem)」と呼ばれる、
四角い城壁都市の図が描かれている。

つまり見開き全体で、
片側に天国の都、片側に悪魔という構図になっている。

この組み合わせについて、
スウェーデン王立図書館などの解説では、

人は「神の側に立つか」「悪魔の側に堕ちるか」という選択を、
常に迫られていることを象徴している

という読み解きが紹介されている。

さらに、この悪魔見開きの直前数ページは、
羊皮紙が不自然に黒ずんでいる。
長年、閲覧者が悪魔のページを確かめようとしてめくる際に、
そこだけ光と空気にさらされ続けたからだと考えられている。

「悪魔のページだけ、書物そのものが焦げている」

という印象が、
この本の“不気味さ”にさらに拍車をかけている。

7. どこへ行っても災いを呼ぶ「呪いの本」説

ギガス写本には、
**「どこへ行っても災いを呼ぶ」**という都市伝説もつきまとう。

代表的に語られる“災いの連鎖”は、だいたいこんな形だ。

制作地のポドラジツェ修道院は、15世紀のフス戦争で破壊され消滅

その後所蔵した修道院も、戦乱や火災でダメージを受ける

16世紀末に所蔵したルドルフ2世のプラハ宮廷は、
奇書・魔術書の収集に熱中するあまり混乱し、
やがて王位は没落へ向かう

1648年、三十年戦争終盤の混乱で、
プラハからスウェーデン軍に奪われて運び出される

1697年、ストックホルム城(トレ・クロノル)が大火災を起こし、
王立図書館の蔵書が焼失する中、
ギガス写本は窓から投げ捨てられて辛うじて生還。
ただし、落下した場所にいた人物が直撃を受け負傷した——という記録が残る

こうした史実に、「悪魔の本が災いを呼んだ」という解釈が後づけされ、
**「破壊できない呪いの本」**とする記事・ポッドキャストなどが今も量産されている。

科学的には、
「戦乱と火災の多い時代に、たまたま災害と同じ場所にあっただけ」とも言えるが、
・巨大で目立つ
・悪魔の挿絵がある
・制作の由来に“悪魔との契約”がある

という条件がそろっている以上、
不幸な出来事がすべて“この本のせい”にされてしまうのは、
ある意味、自然な流れだったのかもしれない。

8. 失われたページと「悪魔の祈り」

ギガス写本には、もともと320枚の羊皮紙があったとされるが、
現在残っているのは310枚だけだ。
12枚ぶんが、誰かの手で切り取られている。

どの部分が欠けているか、
比較研究からある程度の推定はされているが、
なぜ切り取られたのかは分かっていない。

ここから派生した都市伝説が、

「失われたページには“悪魔の祈り(Devil’s Prayer)”が書かれていた」
「あるいは、あまりに危険な儀式書だったので、
誰かが恐れて破棄した」

といった説だ。

当然ながら、
“悪魔の祈り”とされる具体的なテキストは存在しない。
にもかかわらず、この**「失われた12枚」**は、
ギガス写本にまつわるあらゆる怪談・創作の“空白”として、
いまも想像の余地を与え続けている。

9. 「一人の修道士」が残したものとして

スウェーデン王立図書館や各国の研究者による調査では、
ギガス写本の全ページの筆跡・インク・レイアウトに、
一貫したクセが見られるとされる。

それは、
「数十年のあいだ、同じ人物が書き続けた」とするには十分な統一感であり、
写本のどこかには**“Herman Inclusus(隠修士ヘルマン)”**という署名も見つかっている。

伝説の中の「罪を犯した修道士」と、
現実に署名を残したヘルマン・インクルス。
両者が同一人物かどうかは分からない。

ただ、

一人の修道士が

数十年単位で

膨大な聖書・歴史・医学・呪術のテキストを

巨大な羊皮紙に淡々と書き続けた

という骨格だけは、
伝説と史実が奇妙に一致している。

“悪魔が一晩で書いた”という物語は否定されても、
“人間が数十年かけて悪魔のような集中力で書き上げた”という事実は残る。

10. いまもガラス越しに開かれている本

現在、ギガス写本はストックホルム王立図書館の特別展示室で、
温度・湿度・光量を管理された状態で公開されている。

劣化を防ぐため、
・常時ページを開いたままにしない
・展示時も、見ることができるのはごく一部のページだけ
という制限付きだ。

ただし、スウェーデン王立図書館の公式サイトでは、
全ページの高解像度画像が公開されており、
オンライン上では悪魔のページも、聖書も、呪文も自由に閲覧できる。

「悪魔と契約した修道士が、一晩で書き上げた本」
「どこへ行っても災いを呼ぶ、破壊できない本」

中世から続くそのイメージは、
歴史学・書誌学的な検証が進んだ今でも、簡単には消えない。

巨大な羊皮紙の上で、
天国の都と悪魔が向かい合う見開き。

ギガス写本は、
**「信仰」と「恐怖」と「知識」**が、
一冊の本の中でどう混ざり合っていたのかを、そのまま封じ込めた存在として、
今もガラスケース越しに、人々をじっと見返している。

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