夜の斜面に残った「切り口」(1959年2月)
最初に想像してほしいのは、夜中にテントの布をナイフで切って外へ出る行為の異様さだ。1959年2月1日から2日にかけて、イーゴリ・ディアトロフ(Igor Dyatlov)率いる一行が北ウラルで遭難したとされる。テントは内側から切り開かれ、装備の多くが残されていた、という記録が語り継がれている。ここから先の物語は「なぜ外へ出たのか」という一点に収束し、答えが一つに定まらないまま長く残った。
北ウラルと「死に山」コラト・シャフリ(Kholat Syakhl)
場所はソ連時代のロシア領、北ウラルのコラト・シャフリ山周辺とされる。コラト・シャフリはマンシ(Mansi)の言葉で「死に山」と訳されることがある、と説明される。ここで言う「マンシ」は、この地域に暮らす先住の民族集団を指す呼び名だ。地名の響きが強烈なため、事件は早い段階で“土地そのものが不穏だ”という連想と結びつきやすかった。
世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真を分けた手がかり
核心は、物証が複数の方向を向いている点にある。検死の所見として、低体温症(hypothermia)と外傷が同じ事件の中に並ぶ、と整理されてきた。低体温症は、体温が下がりすぎて生命維持が難しくなる状態のことだ。ところが一部の遺体には胸部損傷や頭部損傷があったとされ、しかも外表の損傷が目立ちにくい、という説明も添えられる。
この組み合わせが、単純な「迷って凍えた」だけでは語り切れない余白を作る。自然現象だとしても、どの現象がどの順番で起きれば、テントの放棄と外傷と散在という配置が成立するのか。ここに、いわゆるソ連の不可解な遭難事件としての印象が定着した、と語られがちだ。だからこそ、世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真という言い回しが繰り返される。
残された物証が語る二つの場面(テントと沢)
一つ目の場面は、テントから森へ向かったとされる足跡の列だ。足跡は靴が不十分な状態でも続いていた、と記録されることが多い。ここで重要なのは「走って逃げた」より、「歩いて離れた」ように見える、という読みが成立する点だ。恐怖でパニックになったのか、あるいは訓練された判断で“いったん離れる”を選んだのか、同じ痕跡が別の物語を呼び込む。
二つ目の場面は、春になってから見つかった遺体の状況だ。1959年5月に、沢(小川)付近の窪地で数人が見つかった、とされる。そこで語られるのが、胸部の骨折や頭部の損傷、そして顔面の欠損だ。ここでいう欠損は「何者かの儀式」を示すと断定できるものではなく、流水や小動物など環境要因でも起こりうる、と説明されることがある。さらに、衣類の一部に放射線の痕跡があったという記録もあり、これが軍事や実験の想像を増幅させてきた。
2020年と2021年、雪崩モデルが埋めた部分
現在の評価で外せないのが、近年の「雪崩」説明だ。2019年に当局が調査を見直し、2020年に雪崩が最も可能性が高いとする見解が示された、と報じられている。ここで注意したいのは、雪崩といっても巨大な雪の壁だけを想像しないことだ。スラブ雪崩(slab avalanche)は、板状にまとまった雪の層がずれて滑り落ちるタイプの雪崩を指す、と一文で押さえる。
2021年には、Johan Gaume と Alexander Puzrin らが、斜面角度が典型的な雪崩より小さくても成立しうる条件をモデル化した研究を発表したとされる。これは「テントを設営するために雪面を切り込んだ」「時間差で雪の板が動いた」という筋書きを、物理の側から成立させようとする試みだ。推測として、これが“外傷が外から見えにくい”という説明と相性が良いと感じる人もいるだろう。一方で、放射線や目撃談めいた光の話題など、モデルの外に残る要素が物語を終わらせない。
それでも残る“説明の余白”(ディアトロフ峠という名前)
それでもこの事件が語られ続けるのは、説明が一つに落ち着くほど単純ではないからだ。たとえば、ドニー・アイカー(Donnie Eichar)が『Dead Mountain(邦題:死に山)』で調査をまとめたとされ、一般向けの理解が更新されていった。さらにロシア・ビヨンドのような媒体が、2020年の当局見解を伝えることで「公式の結論が出た」という印象も広がった。けれど、公式見解が出た後も、細部の違和感が残る限り、人は別の筋書きを探し続ける。
ここであなたに問いかけたい。あなたが“真相”として欲しいのは、自然現象の一貫した説明だろうか。それとも、なぜ人が夜にテントを捨てたのかという心理の決定打だろうか。世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真は、もしかすると「何が起きたか」だけでなく、「どこまで分かれば納得できるか」という側に隠れているのかもしれない。